意味を求めて無意味なものがない

やはりものは言い様で、どうしてそういう言い方をするのかと癪に触ることというのがあって、W君はなんだかどうして、交戦的な口ぶりでこちらに食いついてきた。これが仕事ではなく、自分が今以上に大人気のない人間で、理性を統制しきれてなければ、「お前、何だその言い方。言い直せ。」と間違いなく言っていただろう。それは確信できるのだ。しかしそのいらっとする感じを飲み込んで普通に受け答えていた。ただひとつわかったのは、実は言い方の問題というよりは、W君の存在自体が生理的に受け付けてないのではないかということだ。それは短期間だけのヘルプで来た人が、一瞬にして彼への苛立ちを見せたからだ。「何だあいつは」とその人が言った時に、ああ、W君の存在とは誰にとっても癪に触る存在なんだと思ったのだ。それというのは非常に非情なことなのだけど、世の中にはそういう人というのは偶にいるわけだ。そう思うと僕はW君に少し情が湧いてしまうが、きっとそれは間違いで、彼の人となりがそうさせているのだから、致し方ないことなのだろう。ただ自分もそういう人にはならないように気をつけなければならないと思うのだ。しかしながら、そんな彼と共にする仕事も3月末日をもって終わり、4月の最初の週はちょこちょこと仕事したのだけど、そんな日々も終わり、ああまた何もない日々が始まったと思う今日この頃だ。
五反田の駅のすぐ近くを流れる名前も知らない川の川面は、上流から流れてきた桜の花びらでいっぱいになり、流れのうねりとともに、花びらたちが浮いては沈みを繰り返していた。4月も気付けば中盤に差し掛かり、相変わらずの花粉最前線異常ありな自分だが、短期間だけのヘルプで来た人が、「この点鼻薬がいい」とナザールを薦めてくれたので、即買いに行った。これはとてもいいいやと気付き、常備薬として鞄に忍ばせている。即効性がある。しかし今年はあまり花粉など飛んでいないのではないかと思えるぐらいで、最近ではへっちゃらだ。
そんな3月の終わりから4月の頭にかけては、ゆらゆら帝国の解散、あるいはNujabes木村威夫氏や木村拓也コーチの他界など、とても言葉では表せないほどに驚いた事実を見たり聞いたりした。