百年

ばあちゃんが死んだ。享年百だった。
先月の27日、ばあちゃんが死んだ日。その日は朝から仕事していたのだけど、高い所で作業するときがあって、一通り作業を終えたらば、ふとバランスを崩し、踏み台にしていた台で足を滑らして、丁度真下にあったちゃぶ台の上に背中から落下した。幸い怪我はなかったが、その後に携帯電話をふと見ると、母さんから着信一回と留守番電話一件「時間が空いたら電話頂戴」と入っていた。ばあちゃんの具合が最近あまり芳しくないと聞いていたのもあったが、瞬間的に、ああ、ばあちゃん死んだんだとわかった。それもあって、岩手にあるばあちゃんの家に着いて、母さんに「ばあちゃんは何時頃死んだんだ?」と聞いたら、やっぱりそれは9時半頃、自分が落下した時間ぐらいだった。


ばあちゃんはここ数年、だいぶ衰弱していて、殆ど寝たきりで、入退院を繰り返していた。胃に穴をあけて流動食にするか、しかし体力的に手術は無理だろう、ならばどうするかという家族会議のために親父が27日の朝に東京を出発したのだけど、親父は母親の死に目には間に合わなかった。母さんも早速その日の午後にはばあちゃんの家に向かった。自分は葬式には間に合うようにと、27、28、29日の3日間の仕事だったから、27、28日だけはしっかりと働き、29日は代役を立てることにした。
29日は朝から喪服を買いに行った。それは今まで幸いにもあまり着る機会がなかったからなのだけど、普段スーツは全く着ないから、お店の人にサイズを全て測ってもらいワイシャツからネクタイまで一式揃えた。ズボンの丈を30分程で直してもらい、その脚でそのまま東京駅へと向かった。丁度ゴールデンウィークの初日だったので、駅は人で溢れかえっていた。これでは新幹線の席が取れないのではないかと不安に感じながらも人混みをすり抜け、足早に切符売り場へと向かった。盛岡駅を18:00発のバスに乗らなければならかったのだが、それに間に合う14:56発の新幹線はやはりすでに満席だった。ただ14:56発の新幹線より前に出発するものの、所与時間が長い新幹線があり、切符売りのひとに「それは何時に盛岡に着きますか?」と聞いたら「19:20です」と言われ、「そうですか・・それじゃ間に合わないなぁ」と独り言のように言っていると、切符売りのひとがこちらを向かずに何かタッチパネルのようなものを操作しながら「今丁度、14:56発、ひとつ空席出ましたよ」と言った。自分は間髪入れずに「それ買います」と即答した。なんとか無事、17時半頃に盛岡に到着する新幹線に乗り込み、運良く取ることのできた窓側の座席に座り、遅い昼飯を食べながら、これはきっと、ばあちゃんが呼んでくれたのかもしれないと思ったのだ。
このふたつの偶然とは呼びきれない偶然を前に、説明の不可能な力っていうか、超自然現象っていうか、そんなものたちの存在について考えてしまいそうなものだが、難しいからやめた。
盛岡を18:00発のバスに乗り、暗闇に染まった山々の中を左に右にと揺られること2時間余り、漸くばあちゃんの家に辿り着いた。当り前のことだが、既に通夜も始まっており、親父も親戚一同も酒で腹をたらふくに満たしていた。玄関を抜けて、まずばあちゃんに手を合わせた。棺の中のばあちゃんはぐっすりと眠っているようで、肌つやもあって、皺も少なくて、もう本当に今にも起き上がりそうだった。親戚一同に挨拶を済ませ、自分と同じく遅れて来た従兄弟とふたりで遅めの夕食にありついた。壁に掛った、まだ茅葺き屋根だった頃の母屋の写真をふたりで眺めながら、昔を懐かしんだ。ばあちゃんの家に来て初めて蠅取紙を知ったこと、それに髪の毛がへばりついて大変だったこと、風呂と便所が母屋の外にあったこと、堀炬燵、仔牛へミルクをあげたこと、話始めればきりがなかった。そうこうしているうちに通夜もお開きとなり、再び棺の中のばあちゃんと対面した。ばあちゃんの周りは真っ白な菊の花だけで埋め尽くされていたので、その上を、イロトリドリの様々な花で覆っていった。黄色や赤色、特に青色の花を挿した瞬間にばあちゃんの周りは華々しくなった。その夜は、自分を含む従兄弟3人と寝ずの番で線香守りすることになった。たが、酒も入り、仕事も続いていたこともあって、ふたりの従姉妹が起きてきて「代わるよ」と言ってくれた言葉に甘え、歳上の従兄弟2人が寝付いたのを見計らい、3時半頃には自分も炬燵の中で眠りに着いたのだった。


翌朝、目が覚めると家の中は既に動き出しており、自分と同じく遅れて来た従兄弟ひとりと自分だけが炬燵で悠長に眠り惚けていた。シャワーを浴びて、歯を磨き、朝食を済ませて、喪服に袖を通した。ばあちゃんが入った棺を、親父たち息子と、上の従兄弟の孫たちが霊柩車に乗せた。火葬場に着いて、今度は自分も輪に加わり棺を焼き場に運んだ。棺の窓を開けて、本当に最後のばあちゃんの顔を見た。やはりそこには百とは思えないくらいに、肌つやもあって、皺も少なくて、もう本当に今にも起き上がりそうなばあちゃんがいた。
数年前、正月に、ばあちゃんの家で幾人かの親族が集まったときがあった。もうその頃には、ばあちゃんは殆ど自立することすら困難になり、記憶も曖昧になり、自分のことを親父だと勘違いしていた(というのも今回、親父の若き頃の写真を初めて見たが、確かに今の自分を見ているようで驚いたのだ)。しかし意識だけはしっかりしていて、こちらが騒いでいるのはわかっているようで、ばあちゃんが震える左手を伸ばしてぽつりと言った、「酒、くれ」。このばあちゃんの台詞を決して忘れることはないだろうと思うのだし、実はこれが自分にとっては、ばあちゃんの口から聞いた最後の言葉だったように、今、振り返れば思うのだ。
確かに今にも起き上がりそうな棺の中のばあちゃんだったが、無論、棺の中のばあちゃんはもう何も話してはくれないのだ。もう何も。そっと触れてみたばあちゃんの額や頬は冷んやりとしていた。そうしてばあちゃんは焼かれて、煙になって、青空に飛んでいったけど、みんなとの別れが惜しかったのか、みんなでばあちゃんの骨を拾っているとき、突如、火葬場は雨に濡れた。
百年を生きた骨は流石にすかすかで、細かく砕け散っていた。そんなばあちゃんを骨壺に納めて、一度家へと戻った。家に入る前に水と塩でお清めをするわけだが、岩手の山奥の慣習なのか、口に水を含んで濯ぎ、口の中も清めた。そして、お坊さんが来て、ありがたいかありがたくないかは別として、読経してもらい、還骨法要ってやつを済ませた。血の気のひいた脚を崩そうとしても自由が利かず、苦しんだ。その後、墓へ向かい、埋葬。ばあちゃんの骨を土に還した。こうしてばあちゃんの葬式は滞りなくすまされた。


次の日からは専ら日曜大工となった。ばあちゃん亡きこれから、岩手の山奥の広い一戸建てに住むのは、ばあちゃんの(既に他界してしまった)長男のお嫁さん(つまり親父の兄さんのお嫁さん)だけとなってしまう。自分たち親族はいつからか彼女をかあちゃんと呼ぶようになっている。そのかあちゃんが生活し易いよう、母屋に隣接した納屋の中に防塵、防寒用の屋根をつけたりした。そんな日々を何日か送り、初七日を迎え、自分は仕事もあったため、両親より一足先に東京へ戻ることにしたのだった。
確かにばあちゃんの死は悲しいけれど、百まで生きた事実があり、それも病死や事故死などではなく、老衰だったことを思えば、やはりそれは大往生というやつで、立派だな、凄いなと思えるのだ。70歳、80歳近くの親族たちが、あとこれから20年、30年近く生きるってことは大変なことだと口々にしていたこと思い出す。自分などは、あと70年近くも生きるということだ。今からそのことを考えると気が遠くなる思いだ。とてもじゃないが無理だとしか思えないほどだ。百年という時の流れを生き切る生命力、それは、ばあちゃんの体内で百年、一刻も止まることなく脈々と鼓動し続けた心の臓であり、気力、精神、それらを培ってきた生活、ばあちゃんを支えた家族、つまりばあちゃんを取り巻くすべての環境なのだ。そのすべての環境がばあちゃんの生命力となり、百年という壮大な年月を旅し続けさせたのだ。百年の最期の姿などは実に美しく、そして、遂には黒煙となり、芯だけが残った。その偉大さを前に、自分はただただ合掌し続けた。(了)