この一月を振り返る、そして死

昨年の秋くらいに貯金を決意したから、冬服を全く買わないで持っている服だけで2009年から2010年の冬を凌ごうと思っていたのだけど、真性消費家みたいなところがあるので、2日にセールに出かけてしまって、ついつい予算を越えたブルゾンを買ってしまった。30%Offでこの値段かと躊躇している自分に「着てみるだけどもどーぞ」と声をかけてくる店員。その言葉来たかと敏感に反応する自分。この言葉は着ろ着ろ詐欺の手口みたいなもんだ。着てみるだけという言葉に騙されて着てみたら、ああやっぱりいいよなと思ってついつい買いたくなるのは目に見えている。しかし自分はもうこの言葉を耳にしたときには気持が殆どある一方に傾いていた。なので、だまされたふり作戦ということだ。「着たら買いたくなっちゃいますからね」と言いながらも「着てみます」と店員にブルゾンを渡し、いざ腕を通してみると、ああやっぱり買いたいという気持が込み上げてくる。自分は騙されているんじゃない、自分の意志で、買いたくて買うのだ、と決心し「お願いします」とブルゾンから腕を抜いた。こんなことだから、いつまで経っても貯金が成功しないのだ。
そういえば最近はジャンパーって言わなくなったものだ。子供の頃はジャンパー、ジャンパー言っていたし、テレビでジャンパーソン見てたけど、すっかりお洒落気取ってブルゾンなんて言うようになったものだ。ジャンパーは英語で、ブルゾンはフランス語であるが、決してフランス気触れではないのだ。どっちかというとアメリカ気触れである。


ユニクロが民族大移動とからしいが、年末にはウェンディーズが唐突に総撤退していって驚いたが、そんな殆どいったことのないウェンディーズの話などより、タイムズスクエア内のHMVの閉店のほうが衝撃的だ。数字が云々よりも消費者に最も身近な販売店が減るところを目の当たりにすると、やはりCDは売れてないのかと実感する。あとは雑誌だ。次々と伐採されていく樹木のように、次々と廃刊、廃刊、また廃刊と消えていく。
ネットが世界を浸食していく。カタチあるものは消え去り情報のみが伝達される。
書籍も消えていくのだろうか。例えば、最近ようやく読み始めた大江健三郎の「水死」が電子書籍として発売されて、Appleから発売されるかもしれない、憶測でiSlateと呼ばれているタブレットディヴァイスで読まれる日が来るのか。通勤電車の中では皆がそれを持ち、書籍を開く者が少なくなる。無論、新聞もデータ化され、発売されるので、電車内で迷惑なほどに新聞を広げる輩も減少すればそれはそれでいい。


電車内といえば/家路に向かう電車に乗っていた。とある駅で眼鏡をかけた可愛らしい感じの女子高生が携帯電話で会話をしながら乗ってきた。彼女は出入り口の扉に右側の腰を少し前に突き出し寄り掛かった。丁度、僕の目の前だった。髪は黒色だった。ブレザーの胸ポケットには金色の刺繍で学校名が縫い付けられていた。電話は水色だった。彼女の独り善がりなお喋りは続いた。携帯電話をしっかりと握る右手。そんな右手の小指が下唇を触れていた。そして彼女は時折そんな暇を持て余した小指を甘噛みしていた。


今年は年始早々から仕事が舞い降りてきたので、昨年の年越しは安堵感に溢れたものとなった。
今日はようやくの休みで、今年初めて映画館へ行き「かいじゅうたちのいるところ」を観たが、なんという薄っぺらさなんだと驚いた。だけどやっぱりママが好きという結末までに、他人のふり見て我がふり直せっていう過程を見るのだけど、我が儘は駄目だよっていう教訓の絵本はそもそも子供に対しての教訓であって、この映画はビジュアルを観れば一目瞭然、明らかに大人向けの映画になっているのだけど、それこそ子供騙しみたいな話を大人が楽しめるかよと思ってしまった。情緒不安定な世界観に嫌気がさした。


先日エリック・ロメールが亡くなった。89歳という年齢だったのだから大往生である。「アストレとセラドン」が遺作になったわけだが、遺作にふさわしい傑作だったと思う。ロメールの凄さは、女がどうとか、お洒落な感じとか、だらだら続く台詞とかとは全く別の、カメラポジションとかカッティングのリズムとかにあるのだと思うのだけど、それはわかっているのだけど、どうしても好意的に観ることができなかった。「三重スパイ」も台詞だらだらでしかも無字幕だったりで、集中するところが自ずと撮り方のほうにいってしまうので、それはそれで凄いよねってわかるのだけど、どうしても好きになれないのはなんでだろって思う。そもそも「獅子座」とかもわかるが好きにはなれなかった。
自分にとって凄いと感じるのと好きだと感じるのが比例しないこともあるのだと知ったのがエリック・ロメールである。ただひとつ思うのは、ロメールの映画は自分が歳を重ねてから観ると感じ方が変わっているのではないかということだ。